見つけた 犬としあわせ

こころがどきどきするもの見つけたとき、それを作品にしたり、思わずなにかの形にして人に伝えたくなります。 見つけたとき感じたしあわせ感覚がひとしずくでも誰かに伝わったら、ダブルでハッピーです。

2010/07/19

エスコバルの息子




今朝の朝日新聞によると、コロンビアの麻薬王、パブロ・エスコバルの息子がいま、父が殺害した犠牲者の遺族を訪ねる旅を続けている。エスコバルの長男、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスの建築家フアン・セバスチアン・マロキン(フアン・パブロ・エスコバル)33歳は、「遺族に許しを請い、対話によって暴力の連鎖を私たちの世代で止めたい」と話している。

◇ブエノスアイレス:1993年に射殺されたコロンビアの麻薬王パブロ・エスコバルの息子、フアン・パブロ・エスコバル氏が、出演したドキュメンタリー映画で父親が犯した犯罪を振り返り、謝罪の意を表している。

この映画は「Sins of my Father(父親の罪)」というタイトルで、アルゼンチンで今週始まる映画祭で上映される。

フアン氏は、父親が治安部隊に殺害された翌年にコロンビアを離れ、その後はセバスチャン・マロキンという名前で、建築家としてブエノスアイレスに暮らしている。

フアン氏はロイターに対し、「エスコバル一族の一員として、過去に起きたことの責任を受け入れ、父親の犯罪でコロンビアが受けたすべての被害について許しを請わなければいけない」と話した。

コロンビアでは、1980─1990年代に力を持った大規模な麻薬カルテルが衰退し、その後勢力を伸ばした密輸ギャング団と治安部隊とのせめぎ合いが続いている。

フアン氏が実名を明かすことにしたのは、そうした母国に和解をもたらしたいからだとしている。

かつて、世界最強の犯罪組織の1つだったメデジンカルテルを率いたパブロ・エスコバルは、敵対する組織メンバーなど数千人を殺害し、閣僚や大統領候補も暗殺。フォーブス誌によると、麻薬取引で築いた資産は30億ドルを超えていたという。

(ロイター 2009年11月12日)

世界有数の麻薬供給基地、南米コロンビアを支配するのは暴力の論理だ。豊富な資金とテロリズムを駆使した麻薬カルテルの力は政府を凌駕し、彼らに逆らう者は政府要人であろうとも容赦なく殺される。そのなかで頂点を極めたメデジンカルテルの頭目パブロ・エスコバルは、コカインをアメリカに大量輸出することで富を築き、1989年には「フォーブス」誌で“世界で7番目の資産家”とランクされるまで麻薬ビジネスを発展させてゆく。自国におけるコカインの蔓延を憂慮したアメリカ政府は、麻薬撲滅を掲げてコロンビアへの介入を開始。DEA(アメリカ麻薬取締局)、CIA、陸軍の精鋭スパイ部隊セントラスパイク、 対テロ特殊部隊のデルタフォースがコロンビア政府の結成した特捜隊を支援し、パブロの追跡・暗殺を目指す。だが入念に計画された急襲作戦も失敗を重ね、 卑劣なテロ攻撃による犠牲者が続出、殺害は困難を極めることにーー。
(「パブロを殺せ―史上最悪の麻薬王VSコロンビア、アメリカ特殊部隊」より)

△パブロ・エスコバル(19491月12日ー1993年12月2日):
メデジンの貧しい家庭に育った少年エスコバルは、頭の良い家族思いのやさしい子供だったが、10代で犯罪に目覚め、自動車盗、強盗、誘拐に手を染め始めた。その後、コカイン取引が金になることを知って、1970年代までに「 El Cartel de Medellín 」と呼ばれる強力な麻薬カルテルを築きあげた。


・カルテルの拡大

1980年代、メデジンカルテルは販売ルートを拡大し、ペルーとボリビアから持ち込んだ良質のコカインをメキシコ、プエルトリコ、ドミニカに売り込んだ。その後も販売ルートを拡大して、南北アメリカ大陸や一部アジアとも取引するようになりコロンビア政府やアメリカ政府と激しく対立するようになる。
最盛期のメデジンカルテルは、世界のコカイン市場の8割を支配し年間最大250億ドルの収入を得ていたと見積もられ、エスコバル自身も世界で7番目の大富豪としてフォーブス誌に取り上げられたこともある。エスコバルはコロンビア政府やアメリカ政府の敵であったが、貧困層の住宅建設、サッカースタジアム建設などの慈善事業に熱心で、貧困層を中心とした一部のメデジン市民の支持を得て彼らの英雄となった。援助を受けたメデジン市民の中には、自ら警護役や見張役をかって出てエスコバルの身を官憲から守る者もいた。一時的ではあったが、国会議員を務めたこともある。

・テロ

1980年代後半、コカイン流入に頭を痛めたアメリカ政府は、「エスコバルの引渡しとアメリカ国内での裁判」を条件にコロンビア政府と協定を結んだ。これに激しく反発したエスコバルは「plata o plomo (贈賄か暗殺か)」と称し、政治家・役人・裁判官への贈賄工作を活発化させる一方、敵対者への暗殺・テロを敢行した。1985年に発生した左派ゲリラによるコロンビア最高裁占拠事件はエスコバルの関与が噂された。さらに1989年、メデジンカルテルは、大統領候補者3人の暗殺、アビアンカ航空機203便の爆破、ボゴタの治安ビルの爆破を実行している。そしてライバル組織であるカリカルテルとの抗争も激化し、メデジン周辺は無政府状態に陥った。

・刑務所への収監

1991年に、政府や敵対者との抗争に疲れたエスコバルは、5年の服役とアメリカへの引渡忌避を条件にコロンビア政府と合意すると、自ら建設した個人用の 「La Catedral(教会)」と称される豪華な刑務所に収監された。サッカー場やディスコさえ備えられていた「La Catedral」での生活は快適で、エスコバルは今までどおり組織に指示を与え、メデジン市内に外出しては買い物やパーティ、サッカー見物を楽しんだ。1992年に「La Catedral」内での2件の殺人事件が表面化すると、さすがに世論も沸騰し、別の刑務所への移管が計画された。1992年7月22日移管の日、エスコバルは刑務官の前を堂々と歩いて「La Catedral」を出るとメデジン市中に姿を隠した。

・殺害

潜伏したエスコバルは、コロンビア政府、アメリカのデルタフォース、カリカルテルに追われる身となったが、独裁的なエスコバルの追い落としを目的とする 「Los Pepes(パブロ・エスコバルに虐待された人々)」と称する闇のグループからもつけ狙われた。「Los Pepes」は、エスコバルの家族や手下300人以上を殺害してメデジンカルテルに大打撃を与えた。犯行現場には必ず「Los Pepes」の署名を残したという。エスコバルは味方には多くの恩恵を与えたが、敵対者を殺害する前に指を切り落とすなどの残虐行為を犯したため、多くの人々の恨みもかっていた。
その後政府はエスコバルの一部の家族の身柄を確保し、さらに1993年12月2日、コロンビア治安部隊の電波調査斑が中産階級住宅街の隠れ家から息子と携帯電話で通話するエスコバルの居場所を突き止め、治安部隊の特捜チームが突入して屋根の上に逃れたエスコバルに一斉射撃を加えて殺害した。エスコバルの脚と背中、さらに耳の後ろに致命傷の銃弾痕が残っていたという。
なお、「密かに出動していたデルタフォースの狙撃手がエスコバルを仕留めた」と信じる者や、「自殺した」と信じる者、さらには、「射殺されたのは別人でエスコバルは逃走して優雅な生活を続けている」と信じる者がいる。エスコバルは死によって伝説化され、今もってメデジンの英雄として信望する者が多い。 エスコバルの妻子は敵対者の報復を恐れて各地を転々としたが、現在、名前を変えてアルゼンチンに住んでいるという。

・遺体の確認

発掘に反対していた母エルミルダ・ガビリアの死後2日経った2006年10月28日エスコバルの遺体が甥のニコラス・エスコバルの要請で掘り出され、遺体が実際にエスコバルのものであったことが確められ、DNAも採取された。エル・ティエンポ紙の報道によれば、エスコバルの先妻マリア・ビクトリアは、ビデオカメラで発掘を記録していた。家族の何人かは、エスコバルが自殺したと信じている。


エスコバルの死後、メデジンカルテルは分断され、そのリーダー達も90年代半ばまでに殺害または逮捕され、現在、コカイン市場はカリカルテルの支配下に移っている。エスコバル亡き現在、コカインの単価は低下し、取引量は増加の一途をたどっている。

写真はキング・オブ・コカインことパブロ・エスコバルと、建築家の長男