見つけた 犬としあわせ

こころがどきどきするもの見つけたとき、それを作品にしたり、思わずなにかの形にして人に伝えたくなります。 見つけたとき感じたしあわせ感覚がひとしずくでも誰かに伝わったら、ダブルでハッピーです。

2014/09/02

学校で話すな!とのお達し

サイコーに美しい写真 
上も下もガザの子どもたちです!
https://twitter.com/RachelMicheleG/status/505074174378139648/photo/1
◇イリノイ州の学校がマイケル・ブラウンの死について議論するのを禁じる

学生にファーガソンで起きた事件について話すことを禁ずるのは、まさに彼らが必要とするのと正反対のことを彼らに申し出る。
Alternet 26 August 2014 

マイケル・ブラウン射殺や、あとに続くコミュニティの不穏のような悲劇に直面したとき、問われる厄介な疑問がたくさんある。なぜ再びこれが起こったのか?だれが責任をとらされるべきか?そのような不正をどうやって防ぐのか?

しかし厄介な疑問に混じり、子どもたちになにを語るか?これほど差し迫った、または欠くことのできないことはほとんどない。
教育者にとってその疑問がはなはだしく重荷を負わせる、そしてブラウン事件の場合、ブラウンの死がちょうど大学に入学するとき(明日から大学ってとき)に起こったので、なおさらそうだ。しかしイリノイ州エドワーズヴィルではその答えが熱意をくじいている。子どもたちになにを話しますか?私たちはなにも話しません。
セントルイスの地元CBS系列から:
エドワーズヴィルの学校では授業でファーガソンまたはマイケル・ブラウンについて話さないとの新しい指令が出されました。
エド・ハイタワー校長(教育長)は現行のできごとについて普通はオープンな議論があると言います。
「しかしながらファーガソン・フローリサントのこの状況は、それによって知られていないあまりにも多くの事実がある状況になってきている」と彼は言う。
教師らはそのことを話し合うな、そして生徒がそのことを持ち出す場合には話題を変えたらいいと言われてきていると彼は言う。
これは多くの理由のせいで言いわけできない。学生の生涯を含め、まったく私たちの生涯に強い影響を与えるという事実にもかかわらず、射殺の基礎はアメリカでは私たちがすでに話し合うことを拒絶する人種上の問題に基づいている。話題に立ち向かうことの不履行は間違いなくそれをうせさせない、そして学生が世界についてどう感じるかは、彼らが世界についてどう学ぶかに強い影響を与える。
コラムニストのLeonard Pitts Jr.は、学校でファーガソンの話題を禁止するのはまさしく間違ったアプローチであるという点で一致する。それよりも、必要なのはまさにそのとおり、教室に現実の世界を持ち込むことに焦点を合わせることだと主張する:
初等教育学校ほど早くに開始する授業は、要するに私たちを紹介する年齢にふさわしい異文化間の学校教育を提供すべき、いや義務づけるべきです。漠然とした文化内のプライドを伝えようともくろむ、達成とみごとな成績の非現実的なカリキュラムでなく、私たちが何者であるか、どこから来たか、そしてインナーシティ(都市の中心市街地)の黒人、アパラチア地方の白人、バリオのメキシコ人、なんであれ、私たちの本質となるどの社会的勢力かという理解を伝えようともくろむ、感傷に左右されない実際的な欠点も全部含めるアメリカの歴史ということです。
学校教育の市民の義務を立ち直らせること
私が公立高校で英語を教える18年間に悲劇が私たちの神聖な職務時間への責任をしばしばかなり中途妨害した、スペースシャトルチャレンジャー号が爆発した1986年1月28日と2001年9月11日は特にだ。これらの悲劇はメディア報道を使い尽くしたので、私の学校中くまなく大部分の教師が教室のTVをつけて学生といっしょに私たちの前に明らかになる歴史の暗黒の瞬間を見守った。標準と大ばくちの評価に基づく成績責任が徐々に発展する1980年代と1990年代を通して私は教えたが、当時でさえ、生徒に課題を果たさせるために教師は指示され、監視された、そしてテストに向けて生徒に標準を教えて準備させた。
“だれも子どもは置き去りにしない(No Child Left Behind)”法案が通過して以来、学校教育はますます焦点が標準またはテストから決して遠くそれない場所になった、そして毎日の生活のリアリティのための余地をほとんど残さない、そのリアリティが教師や生徒の生涯に悲劇を強要するときでさえもだ。このアプローチには一般教育を、そのいしずえとなる市民と民主主義の目的から離れて、大学や職業の備えにシフトする成果もあった。
#ファーガソン摘要:私たちの不適当な世界に注意を向けて取り組む学習
教師は、若者の死、人種差別問題、権威者と法の執行について矛盾する主張そして安全性と、ファーガソンで起こったことを取り囲む複雑な問題について学生がどう感じるか、よく考えて表現するほどほどの時間を彼らに提供する仕方を見つけなければなりません。
知的に従事しようと努める教室は感情的にそして物理的に安全でなければならない;ブラウンの射殺は会話と話題を禁じることで人に向けて話すことができない若者に恐怖をあおっている。その代わりとして教師は、情動で始めてその場で、人種差別、警察の武力行使、市民の不安といった厄介な問題を彼らがどう見るかに慣れるようにするのはもちろん、いかによりよい情報を与えるようになることで感情を人に向けて話すのを助けるか試してみるために学生には多彩な機会に近づく安全な議論をうまく成し遂げるべきです。
アメリカの若い丸腰のアフリカ系アメリカ人男性の射殺は、よく考えた慎重な意見としっかりした事実が欠かせない多くの複雑に絡み合う疑問をはらんでいる。正規の教育の最も重要な側面のひとつは、しばしば不適当な私たちの世界を了解するようになる広範囲の学問分野としての道を子どもたちに手ほどきしている。よく人を誤解させるメディア界に対して、学校は安全な港であるべきです。学生にとってファーガソンの話題に立ち向かう最良の場所のひとつが教師のいる教室にある。このことを理解する一部の教育者はすでに悲劇と取り組むカリキュラムと授業時間案を創り出している。ファーガソンの事件が見えてくるとき、ため息より多くの案を必要とする。不道徳な世界の自己満足より、私たちには道義をわきまえた男女の行動のほうが必要です。行動しないとすれば、その時は次の熱意はないことになる。いまなら熱気がある。
ブラウン射殺の悲劇には、まさにいまエドワーズヴィルの学校が命令している厄介な話題を人に話すことの拒否といったものに問題の根源があるのだから、人種上の意識を教室に持ってくる重要性を強調する取り組みが欠かせない。
だが、現実の教育方針はそれとは反対にある。世界を変えるために、学生は厄介な質問をすることを学ばないといけないし、学校はそれらの課程を学ぶための場所である。
http://www.alternet.org/print/education/illinois-school-bans-discussions-michael-browns-death

二度とビーチでサッカーボールを追いかける子を狙って撃たないで!